『ALWAYS 三丁目の夕日』でわかる!70代の生まれた時代【1950年〜1960年】

ALWAYS三丁目の夕日でわかる70代の生まれた時代

突然ですが、ご両親とか、おじいちゃんおばあちゃんの生まれたとき、どんな時代でどんな娯楽があって…とか、思いつくでしょうか?
時代を遡れば遡るほど想像つかなくなるんじゃないかと思います。

そこで実写やアニメの映画を参考にしまして、お年寄りが生まれた頃はどんな時代だったのかを解説してみます。

今回は実写映画『ALWAYS 三丁目の夕日』を参考にして
戦後復興期、庶民の生活は実際どのようなものだったのかをみていきましょう!

目次

はじめに

1945年に、戦争が終わります。
1950年の朝鮮戦争を契機に、日本は景気がよくなったり落ち着いたり。
浮き沈みを繰り返して、だんだんお金持ちになっていきます。

90代の方は、18〜27歳
80代の方は、 8〜17歳
70代の方は、  0〜7歳

70代から90代まで揃って、年頃からも、色々想像しやすいかもしれませんね。

大まかな時代背景ですが。
さっきも触れました通り、1954から1973年まで、好景気が立て続けに起こります。

そのおかげで日本は経済的にものすごく成長したので、「高度経済成長期」と呼ばれています。

介護じぞう

1956年には、「もはや戦後ではない」と言う言葉が生まれます。
戦争が終わって10年ちょっとで、すごいですね!

このころの生活がどんなだったか知りたい方には、
『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画をおすすめします。

『三丁目』の世界観

舞台は1958年。
この映画の設定から、ちょっとずつ抜粋してみます。

冒頭で、堀北真希さん演じる六子(むつこ)という女の子が青森から上京して、下町の工場に就職します。
他にもたくさんの子供たちが、全国各地から上野駅にやってきています。

これは集団就職といって、中卒や高卒で地方から都市部に働きにやってくる子供が多かったんです。
この頃、日本は工場がばんばんできて、製造業はフル稼働。
子供に至るまで大量の働き手が必要だったんですね。

六子さんは戦時中、43年あたりの生まれだと思われますが。
戦後、47年から49年にかけてベビーブームが起きます。
その期間に生まれた人たちを「団塊の世代」なんて呼びますね。

そのあたりの世代、中卒で就職する子供たちは「金の卵」と呼ばれたりもしました。

たくさんの若者が都会に出てきて、戦後の経済を支えた
って言うのが想像できるんじゃないかと思います。

介護じぞう

当時の進学率は、大学で一割。高校でも半分ほど(!)
中卒で働き始める「金の卵」がいかに多かったのか分かりますね。

街の風景

街の風景はどうでしょうか。

東京タワー

洋風の建物が増えて、自動車もたくさん走っていますが。
なんと言っても目を引くのが、建設途中の東京タワーですね。

一年ちょっとの工期で、物語の終盤58年の12月23日に完成しました。

東京タワーは、電波塔。
より遠くまで電波を飛ばす必要が出てきた、と言うことで。
娯楽として、TVが登場した、と言うのが物語の中でも強調されています。

TV放送自体は戦後すぐスタートするのですが、当初は街頭TVがほとんどでした。

53年には家庭用TVが発売されるのですが。
この頃のTVの価格が89500円、現在の価値に直すと、54万円ほど。

作中、自動車工場のお家にTVがきた際にはご近所を巻き込んでのお祭り騒ぎになっていましたが、
それもわかる気がしますね。

65年には普及率が90%に達して、そこから先はカラーTVの時代になっていきます。

服装

目に見える変化として、服装も顕著かもしれません。

戦時中が舞台の『この世界の片隅に』では、女性の大半は和服でしたが。
戦後10年ほどの『ALWAYS』では、和服に日本髪の女性は、1人か2人しか映りません。

東京と地方都市、田舎とでは違いがあるとは思いますが。
肌の露出も増えて、全体的に活動的な印象がありますね。

この時代のファッションリーダーといえば、オードリー・ヘプバーンが挙げられまして。
映画で着用していた「サブリナパンツ」っていう服が流行ったりします。

他にも「真知子巻き」「GIカット」など、髪型や小物遣いにも流行が生まれます。
自己表現として服を選べるようになった、と言うのはそれまでの時代と大きく違うことかもしれません。

食生活と娯楽

食生活

戦時中や戦後間もない頃は、食料を調達するのも精一杯だった
という話は前回させていただきました。

映画と同じ58年には、日清のチキンラーメンが発売されるなど、食糧事情は劇的に変化しています。

今の感覚で言うと、即席ラーメンを「栄養満点」と考える人は少ないかもしれませんが、
おにぎり二個分のカロリーと、脚気の予防に必要なビタミンB群も含まれていると言うことで。
当時は「健康食品」としてデビューしたんです。

ピーマンが普及したのもこの頃。
未成熟な青い状態でも食用が可能、荒れた土地でも沢山採れる。
というのが理由だったとも言われています。

介護じぞう

子供の栄養を心配する親心的なサムシングを感じます。

50年には、固形のカレールウが登場。
劇中では、「ライスカレー」と呼ばれていますが、
前回の東京オリンピックが開かれた64年ごろには「カレーライス」呼びが一般的になったようです。

娯楽

この頃の娯楽はどうだったでしょうか。

先ほど述べたTVは、まだまだ家庭には普及していません。

なので、駅の広場などに設置された街頭TVが人気になりました。
特に、プロレス、ボクシング、大相撲が人気で。
観衆が殺到しすぎてお店の床が抜けたり、木に登って観戦していた人が落下したりとか笑

TVでのスポーツ観戦は今でもアツくなりますからね笑

あとは、戦前からあった映画、ラジオ、プロ野球なんかも復活して庶民の娯楽になっています。

パチンコも、この頃から出てきます。
実は戦前から存在してはいたのですが、今あるような仕組みのパチンコは戦後になって成立したもの。
法整備もされて50年代に大ブームになります。

子供にも娯楽が戻ってきます。
映画の中では、主人公の小説家は副業として駄菓子屋を経営していて、近所の子供たちが集まってきます。

ところでみなさん、「駄菓子」っていう言葉の意味をご存じでしょうか?

「駄」と言う字には「粗悪」とか「値打ちがない」と言う意味があります。
これだと「ダメなお菓子」と言うことになっちゃいますけど、理由があります。

戦時中に、米や砂糖は国が厳しく統制していた、と言う話をしました。
これは戦後になってもしばらく続いたんですが。

人工甘味料を使って価格を抑えたお菓子のことを、駄菓子と呼んだりしたと言うわけなんですね。

小さい頃、親とかおばあちゃんとかに駄菓子を禁止されていた方がおられるかもしれませんけど笑
きっと大人たちは人工甘味料や添加物のことを心配していたんですね。

戦争の爪痕

ここまで見てきましても、戦争が終わってから13年で、随分発展した感がありますね。

居酒屋では「もはや戦後ではない」と言う会話がされています。
これは、56年の経済白書(国が発行している文書)の序文に書かれた一節で、

「戦後復興の期間は終わって、これから新しい時代だ!」
という雰囲気を感じさせる言葉ですが。

物語では、街のお医者さんが、空襲で奥さんと子供を亡くした過去が語られます。
特に、45年3月の東京大空襲では、下町の中心に一晩で10万人をこえる人が亡くなっています。

戦地から帰らなかった人もたくさんいましたし、大きな怪我を負って帰ってくる人もいました。
そういった兵隊さんを、「傷痍軍人」と呼ぶのですが。

上野駅では、昭和の割と終わりくらいまで、手足のない方が街頭で募金を募ったり。
物を恵んでもらう姿を見かけていたそうです。

前の章では駄菓子の話題が出ましたが、
駄菓子屋さん、あとタバコ屋さんは女性が経営する場合が多かったんです。

戦争で旦那さんを亡くした女性たちが、比較的簡単に開業することができたと言う背景があります。
自宅の土間とか、軒先に駄菓子を並べればスタートできますからね。

タバコ屋さんに関しては、国が積極的に斡旋してそういった女性たちの仕事を確保していました。

そう考えると、生活の端々に戦争の影響を感じますね。

介護じぞう

物語には陽気なタバコ屋のおばさんが登場しますが、
もしかして彼女も…と、想像してしまいますね。

おわりに

戦後10年ほどでガラッと生活が変わっている様子が見てとれますが、
戦争の影響も共存した暮らしが描かれていますね。

日本はこの物語の後も成長を続けて、世界第二位の経済大国にのし上がります。

『ALWAYS 三丁目の夕日』は続編も作られているようなので、機会があればまた取り上げてみようと思います!

介護じぞう

戦前/戦中を描いた『この世界の片隅に』で貴重品だった鉛筆が、
本作では子供達みんなに行き届いている描写にホッコリしました♪

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